人間関係論の「ある話」

能力に合った仕事を与えることなど、できない相談である

人間関係論の先生方は、二言目には「部下の能力に合った仕事を与えなさい。部下に無理を言ってはいけません」と教えてくれる。
甚だもっともらしくて、正論に思えるけれども、こんな馬鹿げた理論はない。この論法でいくと、部下の能力を知りつくさないと、部下をうまく使えない、ということになる。そこで、懸命に部下の能力を知ろうと努力する。ここに先ず第一の、そして根本的な間違いがある。
その間違いには、”部下をうまく使うことが、うまい経営である”という考え方である。この考え方がいかに深く根強いものであるかは、”経営学”と称する文献の、最も大きな部分を占めていることをみるだけで充分である。
”うまい人使い”は、うまい経営のための大切な要因ではあっても、”うまい経営”ではない。私は”下手な人使い”で、”うまい経営”をやっている会社を数多く知っている。
(中略)
人間は、自他ともに能力に合った(と思われる)仕事を与えられて、これをやりとげた時に、果たして本当の喜びを感ずるであろうか。能力に合った仕事をやったところで、それは当り前である。当り前のことに、喜びを感ずるはずがない。それに反して、自他ともに”ムリ”だと思われるような難しい仕事を、上司から与えられて、つき放され、時には上司をうらみがましく思いながらも、死ぬような苦しみの末に、仕事を完遂した時にこそ、人間は本当の喜びを感ずるものなのだ。この時には、上司へのうらみがましい気持は消えて、むしろ上司に、そのような機会を与えてもらったことを感謝するのが人間ではないだろうか。
それだけではない。「俺はこんな難しいことをやり遂げる能力を持っていたのだ」それ以後の彼の行動を大きく変えるであろう。
これこそ、真の意味での”人間尊重”であり、部下に対する愛情なのである。
部下がかわいかったら、部下の隠れた能力を信じ、むりと思われるような難事を押しつけて、つき放し、物かげから、ジッと見守ってやることである。もしも、やり遂げることができなかった場合には、別の違った難題を吹っかけて、再び機会を与えてやることこそ、人間愛なのだ。


日本の国語教育研究家であった大村はま先生の有名なお話しがある。
それは「仏様の指」という。
「仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車は、そのぬかるみにはまってしまって、男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいる。いつまでたっても、どうしても車は抜けない。その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが、ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっとぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった。」という話です。「こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、その車を引いていったのだ。」
仕事を教え、社員のレベルをあげることこそ、社長の重要な方針なのである。