人は何のために生まれ、そして何のために生きるのか?
安岡正篤先生は「日本精神の研究」で生きることと、死ぬことを取り上げて、「永遠の今を愛する心」と題されています。
「我々は死を覚悟するがゆえに今をどう生きるかを大切にするのである。
露は路傍の草にそっと静かに美しい玉を結ぶが、日が昇るまでのはかなさを知るがゆえに日の出の一瞬輝く美しさを大切に愛でるのである。
死の覚悟は人生における目先を惑わす欲望や不安を振り払う努力をすることである。
死の覚悟を、死を目前にした時、希望を失ってやけになる事だと誤つてはならない、死に臨んだ時、ただ肉体の滅び行くことを恐れるのは愚かな事である。
言いかえるならば意義ある死をもって未来永劫名誉に生きることが出来るのである。
愚かな人間は永遠とはただ単なる時間の繋がりにすぎないと解釈して、今日をうまく過せばまた明日が勝手に来ると思う。
このような何ら充実のない時間の連なりは何の意義もない。
まことの永遠は充実した意義ある今の連続なのである。
永遠は今をどう生きるかという深い内省(深くかえりみる)による結果の連続でなければならない。
生があり死がある、死は次なる生の始まりである、そう言う永遠は外面的な現象に捉われていては理解できない、目前の現象の中なる本質・真実を見極め洞察する人格が養われて、始めて「今に即して永遠に参ずる」という事を知ることが出来るのである。」
すべて人聞が生きんとする意志はいうまでもなく、人生の原動力である。
しかしながらただ生きようとするだけでは動物と何ら変わることがない。
人は何の為に生きるかという自覚を持った時始めてそこに、人間としてどのように生きなければならないか、何をしなければならないかという思いがわいて来る。ここに人間にのみに許された至尊(非常に尊い)なる価値の世界-法則の世界-自由の世界があるのである。