「二つの花を間違うな」というお話です。
_______
伝えるという意味で参考になるのは、室町時代に世阿弥の著した「風姿花伝」です。
「風姿花伝」は650年前の単なる能の古典ではありません。
現代人につながる言葉、ヒントが詰まっています。
人間の本質とか、人間の考えというのはいつの時代も、何百、何千年の時空を超えて通じるものがあり、それを一冊の文献として世阿弥が残したものです。
世阿弥は何も世間一般に発信するためにメッセージを残したのではありません。
能という芸術が100年以上続くよう、彼がその人生をかけて得た蘊奥(=奥義)を後世に残したのです。
舞う人がどう舞えば、人に伝わるか、能にはどういう役割があるかなどが書かれています。
それが現代の我々に普遍的なメッセージとして強く響いてくるのです。
同書で私が最も共感した教えは、人間は自己を更新し続ける努力を惜しむべきではないという一点です。
何が大事かと言えば、謙虚さや真面目さです。
「風姿花伝」には「時分の花(じぶんのはな)」と「まことの花」という言葉が出てきます。
時分の花とは、若い人が持つ若さゆえの鮮やかで魅力的な花のことですが、盛りが過ぎると散ってしまいます。
これに対し、まことの花とは日々の鍛錬と精進によって初めて咲く花を指します。
人間は修業によって本当の花になって感動を与えられるようになるのです。
世阿弥はこの二つの花を間違うなと言っている。
若い時分に脚光を浴びることを自分の本当の実力だと慢心するなかれというわけです。
90秒にかけた男
ジャパネットたかた創業者 髙田 明 著
日経プレミアシリーズ
_______
世阿弥は「初心忘るべからず」という言葉をのこしました。
この言葉は、初めの頃の「やるぞ!」っていう意気込みや「志」、気持ちを忘れないように・・・ではないそうです。
世阿弥が言った本質は、最初の頃の「未熟な自分」、「初心者の頃のみっともない自分」を折にふれて思い出すことにより、
「あのみじめな状態には戻りたくない」と思うことでさらに精進できるのだ、と世阿弥は説いています。
芸の未熟な自分をも支えてくれた人達が大勢いるのです。
自分で自分を見つめ直し、未熟な自分を支えてくれた人達に少しでも恩を返せるように精進し、いつまでも謙虚でいなさい!ということです。
そして、芸を極める上で「謙虚さ」の大切さをこのようにいいました。
___
どんな滑稽な役者であっても、もしその演技によいところを見つけたら、上手な人でもそれを真似るべきです。
これは道を極めるための、第一の方法でしょう。
世の中には、もしよいところを見つけても、自分より下手な人間であれば、その技術を取り入れてはいけないように考える常識があります。
ただ、そうした狭い心に縛られているのでは、どうあっても自分の欠点を知ることはできなくなります。
これは能において、「極めることを不可能にする心理」です。
また下手な役者も、もし上手な役者の悪いところに気づけば、「上手な人にも欠点があるのだな。だとすると、初心者の自分であれば、さぞや欠点は多いのだろうな」と考え、そのことに恐怖を抱き、他人に自分の芸のことを尋ね、芸に工夫を凝らすようになっていくでしょう。
稽古にもいよいよ励むようになり、他の技術はすぐに上達していきます。
これをやらず、「上手い役者かもしれないが、オレはあんなふうにおかしな演技はしないぞ」と、自分のことを棚に上げて慢心するばかり。
自分のよいところすら本当にわかっていない役者とは、だいたいこのようなものなのです。
自分のよいところを知らないと、悪いところも「よい」と思ってしまいます。
この状態だと、どんなに年数を経ても、能の腕は上がりません。
下手な人の心のうちとは、こういうものでしょう。
「風姿花伝」(世阿弥 著 / 夏川 賀央 訳 / 致知出版社)
___
自分はまだまだ未熟だなあと思える人は、成長が止まりません。
周りと比べていないのです。
なりたい自分や目標に対して「まだまだ」と言っている。
少しずつでも成長し続ける人には敵いませんね♪
※魂が震える話より❗