『一休さんと老子の言葉』

『一休さんと老子の言葉』

室町時代600年前に、

一休和尚がいました。

有名な一休さんの遺言状をまた紹介します。

一休臨終の時、

「この遺言状は、将来

当寺に大きな問題が

生じた時に開けよ」と
遺言した。

100年後、京都の大徳寺の浮沈にかかわる大問題が発生し、

僧侶一同がすがる思いで開けてみると、

『なるようになる。

心配するな』

と書かれていた。

全員唖然としたといいます。

しかし、まとを得ていて

なるようになるものです。

人生も同じ

「ケセラセラ、

テキリージ、

なるようになるさ」。

「どんな困難な状況にあっても、解決策は必ずある。

救いのない運命というものはない。

災難に合わせて、
どこか一方の扉を開けて、
救いの道を残している」
(ドンキホーテより)

だから、あまり思い詰めないで生きましょう。

さて、今日の本題に入ります。

人生訓の代表に孔子の「論語」がありますが、それに対比するのが
「老子」です。

老子は癒しの思想を説いた感じで私は論語よりも好きです。

例えば、

「義を見て為さざるは勇なきなり」(論語)

(正しいことだと分かっていながら、やらないのは勇気がないからだ)

何か怒られているような厳しさがあります。

老子は

「敢(あ)えて主とならず客となる」

(自分から進んで行動するのではなく、

いつもお客様のように控えめでいなさい)

と言って前に出るとなにかと憎まれたり争うようになるので、控えめでいなさいと逆のことを言ってます。

武士や戦時中は論語、平和な時代は老子の方が受け入れやすいのではと思います。

私のような未熟者の性格としては老子の方が好きです。

そこで、老子の

『水に学べ』の章より

「上善(じょうぜん)は水の如(ごと)し」

上善とは理想的な生き方のこと。

水は丸い器に入れられれば丸くなり、

四角い器に入れられれば四角になる。

何事も従順で自由自在。
あるいはまた、水はすべての生き物に大きな恵みを与えながら、誰とも争うこともなく、

それでいて少しも自慢するところがない。

常に人の嫌がる低い所に位置し、

そのあり方はきわめて柔軟で謙虚である。

それでいて、どんなに硬い岩でも打ち砕く力を持ち、

一見、主体性がないように見えるが、

その実、常に低い所へ流れようと強固な意志を持つ。

何もしないように見えながら、

万物に恵みを与え、

必要とあれば水蒸気となり氷となって、

その姿は臨機応変、

縦横無尽の働きをする。

これを読むと、確かにその通りだと感じます。

肩の荷が下りホッとした解放感と清々しい爽快感を与えてくれます。

老子はもっと楽しく、

もっとゆったりと、

もっと自由に、

生きてもいいのだよ。

そんなメッセージを感じます。

一休さんに通じるものがあります。

一休さんの遺言と

老子の言葉に

皆様も癒され

ますように祈って

今日の佳き日に

でも水難には気を付けましょう。

合掌