終戦記念日

「一生忘れられない出来事」

大塚初重氏(明治大学名誉教授)

——乗っていた船が二度も撃沈されたのですか。
(対談のお相手は小野田寛郎さんです)

ええ。あの日の出来事は忘れたことはないです。

昭和20年、私は御茶ノ水の海軍気象部で
気象観測をやっていました。

3月10日に東京大空襲があって
一晩に10万人が亡くなりました。

我々は11日から死体の片付けに駆り出されました。

見渡す限り、焼け野が原に黒焦げの死体の山……。
その死体を大八車に乗せながら、
これはちょっと日本に勝ち目はないんじゃないかと思った。

その直後に上海への移動を命じられ、
3月末頃に佐世保湾を発ちました。

途中韓国の済州島沖で錨を下ろしていた時、
ドッカーンときて、その瞬間に船が燃え上がりました。

——じゃあ停泊中にやられたのですか。

はい。我々の船は門司港で36発の魚雷を積んでいました。

そこへ米潜の魚雷が当たって爆発したものだから、
6,000トンくらいの船の半分が飛んでしまって、
沈みながら燃えていたんです。

私は後部船倉にいましたが、
垂れ下がってきたワイヤーロープに飛びつき、
必死で甲板に登っていこうとしました。

そうしたら他の連中の手がいくつも私の足をつかんでくる。
もう芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の世界です。

私はね……、

生きるためにその人たちを蹴落としたんですよ……。

助かりたい、なんとか生きたいという
思いで無我夢中でした。

後から考えれば人殺しをしてしまったわけです。

——……自分に余力があれば人も助けられます。
まずは自分が基本です。
震災でも何でもそうでしょう。
それは無理のない話だと思います。

海軍に入ってわずか一、二年の若造で下士官でしたが、
自分が助かりたいばかりに人を
燃えている船底へ蹴落としたダメな軍人だったと、
後から自分で自分を随分責めました。

私も82歳になりましたが、
あの出来事は一生忘れることはできません。

しかし、その後の人生の時々に
あの日の出来事が蘇ってきて、
つらい時、苦しい時、いろいろなことがありましたが、
それは随分支えになりました。

犠牲になった命に報いるために、
自分はやらねばと覚悟を決めて生きてきました。

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